選択的ぼっちという選択肢

最近、「おひとりさま」だったり「ぼっち」というのが流行っている。

流行っているというかそうなる人達が増えている。核家族化だったり

コロナ禍を経て、「ひとり」での行動が増えた人も多いんじゃないだろうか。

 

わたしは昔から必ずといっていいほど、大人数の飲み会や学校の中、

3人のグループの時、必ずといっていいほどなぜか「ひとり」になる人だった。

 

だけど、話す人はいるし、壮絶ないじめにあったこともないし

友達も数名いるくらい。

 

だけどなぜか孤独で家族の中では居場所がない思春期を過ごしており

 

反抗期とかぶり、めちゃくちゃ反発した10代だった。

 

最近、地元の山形に帰省し、今までも何度か帰っているのだが

 

自分が落ちついてきたせいか、昔の私がなぜそんなに反抗期を爆発してしまったのか

冷静に分析することができた。

 

まず、本来なら甘えたい性格だったのがそれに合わせてくれる人がいなかった

そして、自分自身も「わかってほしい」「聞いてほしい」というのが

できない人間だったため、孤立化。心では「わかってほしい」だったが

うまく出せなかったことへの不安・怒り・将来に対する焦り。そんな感じだった。

 

それが大人になり、そんな10代のころの自分に対しても「うんうん、そうだったね」と振り返ることができ、家族の中で団欒の時間を過ごして気付いたことがある。

 

 

今でも、「ぼっち」になることはある。しかし、私は、大多数的に

「選択的に」ぼっちをしているのだということに気付いた。

 

なぜなら、幼少期から思春期まで「自分で」「選択をする」という機会が

極端に少なかったからだ。それは、別に家族のせいにしたい訳でもなく

環境のせいにしたい訳でもなく、事実として、そういう環境で育った感じがするので、

 

「自分で」「選択する」という機会を奪われるのが本当に苦手で。

 

確かに、すべて「一人暮らし」ですべて「自分で」「管理する」という連続だと

疲弊しかしないのだけれど、

 

「選択する」ことを制限された後の解放感といったら、これ以上の幸せはない。

 

なので、私は、この「自分で」「選択する」という環境のありがたみを感じながら

 

たまにまったく違う「選択できない状況」にわざと自分を置きつつ、

 

改めて「選択的ぼっち」のありがたさを痛感したくなるんだと思う。